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 バックナンバー一覧メルマガ登録・解除・変更お問合せ 2003/10/29配信

戦場美談の真相 その1 シンデモラッパヲ

 太平洋戦争前から終戦まで使われていた小学校の「修身」の教科書に、こんな文章が載っていました。

「キグチコヘイハ イサマシク イクサニデマシタ。テキノ タマニ アタリマシタガ シンデモ ラッパヲ クチカラ ハナシマセンデシタ。」

「キグチコヘイ」とは、日清戦争に従軍した歩兵第21連隊第12中隊所属の喇叭卒、木口小平2等卒のことです。同中隊は明治27年6月24日、宇品港を出港。
同27日に仁川に到着。そして成歓で初めて清国軍と交戦し、木口2等卒はこの戦闘で戦死しました。

 彼は成歓の戦闘で突撃ラッパを吹いているとき、胸部に敵弾を受けていったんは倒れましたが、銃を杖にして立ち上がり、踏ん張りながらラッパを吹き続けました。しかしそれも長くは続かず、ラッパを吹いている姿勢のまま息絶えたといいます。被弾してもなおラッパを吹き続けながら息絶えた壮絶な最期が、当時の人々に深い感動を呼んだのでした。

 修身の教科書にもなった木口2等卒の美談が有名になる前、じつは出身地も戦死した場所も所属する連隊も全く同じで、木口2等卒とは別の喇叭卒が全く同じ状況で戦死した様子が、海外の新聞にまで報道されていた事実があります。
その兵士の名は白神源次郎といい、歩兵第21連隊第9中隊に所属する1等卒で、木口2等卒と同じ喇叭卒でした。

 白神1等卒は突撃ラッパを吹いているときに胸部に敵弾を受け、ラッパを吹きながら息絶えた兵士として報道され、日本国内では白神の勇姿を描いた錦絵まで売り出されました。その美談がいつしか木口2等卒の名で語られるようになり、修身の教科書にまで載った背景にはどんな経緯があったのでしょう。

 木口も白神も岡山県の出身で、ともに同じ連隊に所属する喇叭卒。しかも同じ日に同じ場所で戦死しています。

 白神1等卒の遺骨を英雄として迎えた出身村の村長と村民たちは、事の真相を知るべく八方手を尽くして調べた結果、情報源はどうやら歩兵第21連隊が属する第5師団らしいということが分かりました。木口と白神の境遇が酷似していたため、錯誤が生じたらしいというのです。その後、岡山県内紙の「山陽新報」に、壮絶な戦死を遂げたのは木口2等卒であるという記事が掲載され、件の喇叭卒は木口小平2等卒であることが確定された形になりました。木口か白神かの論争は、2人の出身村を中心にその後も続きましたが、やがて日露戦争が勃発するとともに新たな戦場美談が次々に生まれ、木口小平の美談は次第に人々の口に上らなくなって行きました。そして太平洋戦争の敗戦で修身の授業は廃止。「シンデモラッパヲ」のエピソードは時代の流れの中でしだいに忘れられて行き、今はお年寄りたちの記憶の中に残るだけとなりました。

 件の喇叭卒が果たして木口なのか白神なのか、事の真相は今もって不明のままです。おそらく今後も明らかなることはないでしょう。しかし日清戦争の成歓における戦闘で、2人の勇猛な喇叭卒がいたことは間違いのない事実のようです。

 木口の出身村・成羽村(現、成羽町)と白神の出身村・船穂村(現、船穂町)には、今でも両喇叭卒の碑が立っているそうです。


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