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 バックナンバー一覧メルマガ登録・解除・変更お問合せ 2003/11/5配信

戦場美談の真相 その2  爆弾三勇士

昭和7年に起こった第1次上海事変の最中(さなか)に生まれた美談で、昭和に入って初めての軍神でもあります。

 この年の1月18日、日本人僧侶が中国人に殺害された事件が引き金となって、日本人居留民の対中感情は急激に悪化し、事件から10日後にはついに上海租界に戒厳令が下される事態に発展しました。

 同日、2千名の海軍陸戦隊が出動して事実上の交戦状態となりました。しかし中国側は、上海を守備する第19路軍3万1千名がひそかに戦闘準備を整えていて、陸戦隊は苦戦を強いられます。

ちなみに日本の陸戦隊は、陸上戦闘を主任務とする米英の海兵隊とは違い、ふだん艦艇勤務している水兵を寄せ集めて臨時編成された部隊で、陸上戦闘には全く不得手でした。

そこで金沢の第9師団と久留米の混成第24旅団の派遣が閣議決定され、両師団は2月16日までに上海と呉淞付近に上陸。20日から総攻撃を開始しましたが、戦死者224名という大損害を出し、廟行鎮に築かれた敵陣地を攻めあぐねていました。

 22日の明け方、24旅団の工兵である江下武二、北川丞、作江伊之助(いずれも1等兵)は、長さ約3メートルの爆破筒(竹で造られた即製のもの)を抱いて、敵陣地の前に敷設されている鉄条網へ突入して突撃路を開いたものの、自らも爆死。しかしこの突撃路を確保した日本軍は一挙に攻勢に出て、敵陣地の占拠に成功しました。

 陸軍は江下、北川、作江の3名は「覚悟の爆死」、つまり自ら死を賭して突撃路を開いたと発表し、3名は伍長へ2階級特進しました。
一躍美談となった爆弾三勇士は映画、歌舞伎、芝居で上演され、歌も作られ、久留米では銘酒「三勇士」、銘菓「三勇士饅頭」、大阪・高島屋の食堂では「肉弾三勇士料理」というメニューまで登場するほど国じゅうあげての熱狂ぶりでした。

 以上が美談「爆弾三勇士」のあらましです。

 自らの生命を投げ出して、味方の突撃路を開く――。これが真実なら、当時としては美談中の美談として、国じゅうが熱狂するのもうなずけます。しかし、真相は違いました。

 江下、北川、作江の爆死は、覚悟の爆死ではなく、じつはたんなる事故死だったことが後になって分かってきました。

 爆死した3名と同じ部隊にいた兵士が後年「『三勇士』のほんとのこと」という手記を書いています。それによると3名が持っていた爆破筒の導火線は、通常のものより短かったというのです。途中で引き返そうとした3名を上官が怒鳴りつけて、仕方なく突入した3名は鉄条網の破壊には成功したものの、離脱が遅れて爆死したというのです。現に、同時に出撃した他の3隊は無事に生還しています。これは生還できる作戦だったということです。よく誤解されますが、太平洋戦争中の特攻作戦を除いて、日本軍は「死ね」という命令は決して出しませんでした。戦闘中の作戦には死の危険が伴うのは当然としても、はじめから生還する見込みのない作戦は採用されなかったのです。

 太平洋戦争後も生き残ってテレビに出演した田中隆吉少将は「爆破筒の導火線が1メートルあれば、生還できたはずだ」と発言したといいます。

 三勇士の美談が生まれた真相には諸説ありますが、最も有力なのはやはり「マスコミが過剰に反応した」という、今も昔も変わらないマスコミ体質が挙げられています。
そもそも三勇士の死を美談として発表したのは陸軍でしたが、それをさらにセンセーショナルに煽り立てたのがマスコミなのです。つい最近も、海の向こうから似たような話が伝わってきたのは記憶に新しいところです。また、前述した田中少将も、3名は事故死であると証言しています。

 美談に祭り上げられた爆弾三勇士は、喇叭卒の木口小平2等卒のときと同じく、国定教科書に登場しました。それによると3名は、死の瞬間「天皇陛下万歳!」と叫んだそうです。では誰がその声を聞いたのでしょうか。3名の最も近くにいたはずの他の3隊は生還していますが、爆破の危険区域から離脱していたからこそ生還できたのであって、声の聞こえる範囲にはいなかったはずなのですが……。

 予定より早い爆発による事故死との見方が広まるにつれ、国民の熱狂ぶりは急速に冷めて行きました。日本中に立てられた三勇士の碑や像も急速に姿を消してゆき、今では敢えて触れない話題となっているといいます。


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