ひらやんのブツクサ独り言   ON WEB
 バックナンバー一覧メルマガ登録・解除・変更お問合せ 2004/9/15配信
北方領土は旧ソ連に侵略された

 小泉首相は9月2日、海上から北方領土を視察しました。北方領土とは歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島を指しますが、旧ソ連に奪われるまでの経緯を正確に知る日本人は少ないようです。私の高校時代、北方領土が太平洋戦争終結のドサクサに紛れて不当に占拠された歴史を知らない同級生がいて、彼は「攻められた時に自衛隊は出て行かなかったのか?」とピントはずれなことを言っていました。

 1875年に締結された樺太・千島交換条約で、樺太(現サハリン)をロシア領、千島列島を日本領とすることを両国で確認しあいました。この条約には千島列島に含まれるすべての島名が記されていますが、北方四島の名は記されていません。この条約が締結された時点ですでに北方四島が日本領であることをロシアは了解しており、わざわざ条約に盛り込むまでもなかったことを意味しています。

 
 太平洋戦争で日本の敗戦がもはや時間の問題となった昭和20年8月8日、モスクワ時間の午後11時、ソ連は翌年4月まで有効だった日本との中立条約を一方的に破棄して、佐藤駐ソ大使に対して宣戦布告文を手渡しました。その1時間後には、日本に対して攻撃行動を起しました。

 日露戦争の勝利で北緯50度以南を日本に割譲した樺太には、日ソの国境線がありました。南樺太の面積は四国の約2倍。当時、季節労働者を含めて40万人の日本人が住んでいました。9日の早朝にはソ連から散発的な砲撃と、小部隊による偵察活動が確認されはじめました。

 10日にはソ連軍の第56狙撃軍団が95輌の戦車と約100機の航空機で本格的な侵攻を開始。日本の歩兵第125連隊は一般市民が避難するための時間を稼ぐべく防御陣地にこもって頑強に抵抗していましたが、15日の終戦は戦闘中の連隊には届かず、18日になってようやく停戦となりました。日本側は一般市民を避難させるため、ソ連軍には現地で踏みとどまるよう要請しました。しかしソ連軍は聞き入れず南下を続けたばかりでなく、山へ逃れようとする一般市民を背後から銃撃し、引き揚げ船の上にまで砲弾を落とし、約1千名の民間人が虐殺されました。
 

 樺太の真岡付近に駐屯していた部隊は、16日には終戦に関する師団命令を受けて真岡の東方2Kmにある荒貝沢に移動し、すでに一部の召集解除を進めているところでした。ソ連軍の急襲に際して仲川大隊長は軍使を派遣することにしました。17名からなる軍使は、荒貝沢の出口付近でソ連軍と遭遇。軍使であることを告げると制止され、指示に従って武器を置いたところを全員が射殺されました。21日にはソ連軍が荒貝沢に接近したため、部隊は自衛のための戦闘を強いられたのでした。

 樺太最大の町・豊原は交通の要路でもあり、ソ連軍に追われた避難民でごった返していました。真岡はその豊原への途上にある町で、ここを突破されると豊原にいる避難民たちに多くの犠牲が出てしまいます。仲川大隊長の部隊には近傍の部隊も加勢して、日本軍は23日の未明まで抵抗を続けました。しかしソ連軍は豊原を空から攻撃し、白旗を掲げた駅舎や赤十字を明示した救護所の天幕に対して焼夷弾20発のほか爆弾数発を投下。100人以上の避難民が殺傷されました。

 一方、真岡にあった電話局には交換手として9人の女性が避難を拒んで残っていました。真岡の市街地が砲撃を受ける中で通信を維持し、市街の惨状を報告しつづけていたのです。ソ連兵がいよいよ電話局内部に迫り、靴音が聞こえてくると稚内電話局に最期の放送を送り、全員が青酸カリを飲んで自決したのでした。彼女たちの最期の放送は、詩吟「氷雪の門」で次のように伝えられています。

 
  内地の皆さん、稚内電話局のお友だちに申し上げます。
只今ソ連軍がわが真岡電話局に侵入いたしました。これが
樺太から日本に送る最後の通話となるでありましょう。私
たち9人は最後まで、この交換台を守りました。そして間
もなく、9人そろってあの世に旅立ちます。

 ソ連軍が近づいております。足音が近づいております。
稚内の皆さん、さようなら、これが最後です。内地の皆さ
ん、さようなら、さようなら。


 8月25日、日本軍の抵抗もむなしく、樺太全土がソ連軍の手に落ちました。
 スターリンは次に北方四島の占領を目論んで偵察活動を開始。千島列島の各地で日本軍の降伏を受け入れながら逐次占領して行きましたが、択捉と国後には米軍が来ることになっていたのでソ連軍は上陸しませんでした。ところが実際には米軍が来ていないことを知ったソ連軍は、8月28日と9月1日に相次いでこの2島に上陸。さらに9月4日までに色丹島と歯舞群島も占領したのです。ちなみに歯舞群島は根室半島の一部であり、北海道の一部を事実上ソ連に奪われたことになります。

 樺太および千島、北方四島を守っていた日本軍の部隊は頑強に抵抗し、ソ連軍の南下を大幅に遅らせました。結果としてスターリンが抱いていた北海道占領の野望を断念させることになったものの、この戦いで日本軍将兵約3000名、民間人約3700名が命を落としました。そのほとんどが8月15日以降のソ連軍侵攻による犠牲者です。

 もし日本軍が自衛のための戦闘を行なわずソ連軍に投降していたら、北海道の北半分はソ連領となり、北朝鮮や東ドイツなどのように共産主義政権に支配されていたに違いありません。そして不凍港を手に入れたソ連は太平洋を自由に闊歩できるようになるため、太平洋の勢力図も全く違うものとなっていたでしょう。

 敗戦により日本の領土は、ほぼ江戸時代の終わり頃の状態に戻ったといわれます。千島・樺太・北方四島の一般市民を守るために終戦後もソ連軍と闘い続け、ソ連の北海道侵攻を阻止した日本軍将兵には、心より追悼と感謝の念を捧げたいと思います。


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